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先輩ママ・支援者コラム
ママが、娘を変えるしかない
目次
宇佐川研との出会い
2017年11月。娘は、2歳を過ぎた頃。Facebookで偶然、「宇佐川研」という投稿を見かけたのが、きっかけでした。初めてブログや動画を拝見した時、思わず朝まで、宇佐川研の今までの投稿を見返しました。
「もしかして娘の気になることは、これが原因かもしれない・・・」そう感じました。
娘の診断名
娘は、妊娠6ヶ月の頃、内反足か外反足の可能性が高いと診断されました。なかなかその現実を受け止められなかった私は、今でもどうやって帰ったか覚えていません。
そんな心配をよそに、娘は、看護師さんも笑うほど、それは、それは、大きな産声で。その産声を聞いた時、「この子なら、きっと大丈夫」と思えて、そこでやっと娘とこれから生きていく覚悟のようなものが芽生えたのです。 結局娘は、「外反足」という診断名でした。
赤ちゃんってこんなもの?
私は、昔から子どもが好きでした。3姉妹の長女だった私は、5歳と7歳離れた妹たちの「小さなママ」でした。
そんな子ども好きな私でも、まず我が子の抱き方、オムツの替え方、することすること全てが初めてで戸惑いの連続でした。
娘に違和感を感じたのは、生後3ヶ月。向き癖があったことと、抱っこ時の反り返りが心配の始まりでした。
その後の娘は、耳かきや歯磨きをとても嫌がったのです。これが、のちに宇佐川研と出会ってわかる、「触覚防衛反応(聴覚過敏)」というものでした。
娘は、音にも敏感でした掃除機の音、ドライヤーの音、トイレで手を乾かす音を聞くと、びっくりしたように泣くので、当時4世代同居だった我が家はいかに大きな音を立てないように生活するか、そんなことにとても神経を使ったかは言うまでもありません。これが、「聴覚防衛反応(聴覚過敏)」と言われるものでした。
他にも、夫がよかれと思い、激しい遊びをした途端、娘は息をするのを忘れたかのように顔を真っ赤にし、痙攣のように硬直してしまうほどでした。
そんな赤ちゃん期を過ごした娘は、2歳になっても、娘はブランコを怖がり、乗りたがりませんでした。今なら「重力不安」があったからだとわかりますが、当時の私は、「娘は、怖がりだな」と誤解していました。
やっぱりおかしい
生後4ヶ月のうつ伏せ時、娘は、腕の力で身体を支えられず、「ぺちゃっ」としたうつ伏せしかできなかったことに、私はとても焦りを感じ、外反足の関係で通っていた整形外科の先生に、無理矢理頼み込んで、リハビリを受けられることになりました。(娘は、低緊張だったのです)。
ただ、他のリハビリを受けている子どもたちと比べて娘は、一番軽度だったので、リハビリ室で娘の存在は、浮いてしまいました。なので、その病院の中で一番若いPTさんが担当になったのも仕方がないのですが、担当のPTさんは、私の質問にもまともに答えられませんでした。やっとの思いでリハビリにつながった私の安堵が、逆に悶々とする要因の一つとなってしまったのです。
専門家に頼れない
私は、とにかくいろんな所に娘を連れ出しました。市内の子育て支援センターには全て行ったと言っても過言ではないほど、いろんな所へ連れて行っては、保育士さんや作業療法士さん、小児科の先生、いろんな専門家の方に相談しました。しかし、「大丈夫よ」「他の子もそうよ」そんな慰めの言葉しかもらえない、もしくは「○○が早すぎる」等と、不安を煽ることしか聞けず、今度は私の心までもが、すり減っていき、娘のことを打ち明ける度に、泣いていました。
専門家に頼っても仕方がないと思った私は、リハビリを辞める決断をし、とにかく県内の講演会があれば参加し、専門書を読み漁り、娘に良さそうなものは、全て取り入れました。ただ、確信を持てなかったせいか、娘の「1日1日」がもったいなく思え、勉強すればするほど焦りが増していったのでした。
宇佐川研と出会って
育児不安で身体も心もすり減っていた頃、冒頭に書いたように、facebookで宇佐川研の投稿を見ていた私でしたが、「東京」という文字を見る度に諦めを感じていました。子育てをしていると、宇佐川研のために母親業を休んで東京へ行くなど、到底許されない状況でした。
そんな悶々としたある日、「岡山で初開催」という文字を目にし、夫の休みを確認する前に申し込みました。岡山なら行ける。数時間なら、日中できる限り娘を疲れさせるほど遊ばせ、夕食を作りさえすれば、きっと宇佐川研の話を聞きに行ける。そんな完璧な段取りをした上で、当日を迎えました。
アウェーの中での参加
会場へ行くと、支援学校の先生が大勢おり、保護者での参加は、私だけでした(現在は保護者の方のご参加が多数いらっしゃいます)。偶然、知り合いの助産師さんが居ただけで、後は知らない方ばかりでした。
自分がこの専門家ばかりの中で、どこまで理解できるか不安でしたが、研究会では事例がふんだんで、基礎感覚についてとてもよく理解することができました。やっぱり娘は、基礎感覚で引っかかっていることを確信した一日になったことを思い出します。
まだまだ知りたかった私は、夫に電話で頼み込んで懇親会まで参加し、植竹先生に娘の現状を話し、どんなアプローチをしたらいいか相談しました。
縁あって
まずは、娘の経緯を伝えないと、わからない部分も多かったので、その日から1週間で、娘の今までの経緯をA4用紙10枚にまとめあげ、植竹先生に見てもらいました。すると、私の熱意が伝わったらしく、木村順先生にもケース資料を見てもらえることになりました。
やはり、植竹先生がおっしゃっていた通り、木村先生も娘の困り具合を理解してくれました。しかしながら、木村先生や植竹先生は、娘に一度も会っていないのです。それにもかかわらず、娘を私以上に理解し、素人の私にわかりやすい言葉で、理論立てて、「困り感」「原因」「解決策」等を丁寧に説明してくださいました。これが宇佐川研のケーススタディというものなど後から気づいた次第です。
私が出会ってきた専門家の中で初めて、なぜその困り感が出ているのか、その困り感を改善するために、どうしたらよいのかまで説明してくれた方は、木村先生と植竹先生が初めてでした。
そうして、我が家はトランポリンとピーナッツバルーンを購入したのです。それは、ちょうど娘が2歳6ヶ月の時でした。(娘がどのようにして改善していったかについては、今後詳しくご説明できたらと思います。)
毎日少しでも
重力不安のせいか、10回が限度だった娘は、なかなか改善はみられませんでした。また、ブランコも風の揺れほどにしか挑戦できない娘は、接地面積を広くすることで、恐怖心を少し和らぐことができるとのアドバイスをもとに、公園に行けるチャンスを見つけては、アプローチを続けました。
植竹先生からも重力不安や姿勢不安(平衡感覚のある意味過剰反応)を示すお子さんは、繊細にそして時間をかけて指導、支援しないといけないことを聞いていましたので、あきらめずにコツコツ取り組むことを大切にしました。
特にトランポリンは、家庭に置いてあるので、雨の日でも自分がしんどい日でもできたのが、とても大きかったです。時間は、数分でもよいので、できるだけ毎日行なうとよいとのことでした。
なんて言ったって、3日坊主の私でも毎日続けることができるくらい簡単なアプローチなのです。
娘の変化
どんな専門家の先生にも改善することができなかった娘が、今は4歳7ヶ月。ブランコは「もっと漕いで」と言えるまでに成長し、「怖がり」だと誤解していた娘は、どんどん「好奇心旺盛で活発な」あるべき姿が出てきたのです。また、触覚防衛反応も聴覚防衛反応も落ち着き、できないことが少しずつ減っていきました。特に大きな成長としては、耳鼻科まで連れて行き、大人5人がかりで押さえつけて耳かきをしていた娘が、今では、家庭で耳かきができるようになりました。
私は、1人の母親です。どんな専門家の先生も改善できなかった娘の困りごとを、素人の母親が改善したのです。
もし宇佐川研に出会っていなければ、娘は未だに日常生活の困りごとが、たくさんあったでしょう。本当は、好奇心旺盛で、いろんなことに挑戦したいはずなのに、「私にはできないから・・・」と自信すらなくなっていたかもしれません。
だから、私も娘も、とても幸せ者なのです。仮に次の困りごとにぶち当たっても、相談できる宇佐川研の先生方や仲間が居てくれるから不安は以前のように大きくならないのです。娘が生まれてからというもの、何度も泣いていた私は、宇佐川研に出会い、泣かなくなりました。娘の「できない」ばかりに目を向けていた(向けざるを得ないくらいたくさんできないことがあった)苦しい子育てから、娘の「できる(できるようになった)」をたくさん見つけられる楽しい子育てができるようになったのです。
お読みいただきありがとうございました。娘を通して私が学んだこと、気づいたことを今後もお伝えさせていただけたらと思います。応援よろしくお願いいたします。
まみむめママより
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